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経済にも影響を与えるジャズ的な考え方

経済関係のサイトを眺めていて、興味深い記事を見つけた。

WBSにも出演しているコンサルタントの御立尚資(みたち・たかし)氏が日経ビジネスのオンライン・サイトに寄稿したものだ。

 ⇒他人を生かすジャズコンボ型リーダーになるのは本当に難しい

これによると、彼が所属するコンサル会社のトップが、1990年に「ジャズ対オーケストラ」というテーマの論文を発表していたという。⇒Jazz vs. Symphony

要するに、全体主義ではなく、個を活かした柔軟な対応が、企業体の動脈硬化を防いでくれるという趣旨を訴えるためのネタに使われているようだ。

つまり、ジャズには個性を優先させながら、それを柔軟にまとめて、ひとつの完成した形に持っていく力がある――、と思われているわけだ。

これがすなわち、音楽という狭義におけるものではなく、広義のジャズに対する認識、ということになる。

翻って、当のジャズ・シーンでは、この趣旨が全うされているのだろうか。

いや、それよりも、こうした一般的な認識によって固定概念化されたイメージ先行の“ジャズ”が、逆に演奏行為を動脈硬化させるリスクが増しているのではないだろうか。

なんだか聴いていてピンッとこないアルバムが多いなぁということが続くと、ついついこういう疑心暗鬼状態に陥ってしまうのだけれど、そんな心の隙間を付くように、ドンッと存在感のある音が目の前に現れてくることが多い。

今年も何回か、そんなことがあった。

来年もぜひ、そういう年であって欲しいなぁ。


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テーマ: JAZZ - ジャンル: 音楽

不朽の名著の書評

富澤えいち『ジャズを読む事典』の書評が2005年3月27日発行「サンデー毎日」に掲載されました。

サンデー毎日『ジャズを読む事典』書評


『ジャズを読む事典』についての記事はこちらへ
   ⇒http://jazznara.blog23.fc2.com/blog-entry-1.html

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他を評して論ずるという仕事【資料編】

批評という行為に関して、どのように定義づければいいのか。

ワタシが着目したのは、まず以下の文章だった。

小谷野敦『評論家入門』平凡新書 p.39

つまり、評論でもいいから、根本には学問的な手続きは必要なのであって、学問的に間違いだと分かることは書かない、という方針を立てればいいのだと私は思っている。

いちばんいけないのは、どこが学問的に慎重な部分で、どこが杜撰な部分なのか、書いている当人が分かっていないことだ。

一般向けに書かれていて、学問を踏まえていながら、厳密なアカデミズムの世界では言えないようなことを、少しはみ出す形で言う、これが評論の基本的な姿だと思ってもらえばいい。



“学問的である”ことを意識することによって、その文章はエッセイ=無責任な書きなぐりとは一線を画することになるだろう。ただし、学問的であることと学術的であることは必ずしも一致しない。ゆえに、「少しはみ出す形」が許されるというわけだ。

そして、批評する姿勢として規範としたいのが、以下の文中にあった。

普通の書評が読みたい   椎名誠

最近の「本の雑誌」の文体が気になる。これは間違いなくゼネレーションギャップからきているのだろうというのはわかるのだが、それにしても何かあまりにもクセがありすぎる文章が多く、読んでいられないページにお目にかかる。

近頃わかい人のヘンな話し言葉「こちらカラスのカラアゲとトリカブトのおしたしでよろしかったですか」的な、聞いていてどうにも気持ちがササクレだつような、バカマニュアルトークの、まあつまりその“文章版”といったらいいだろうか。

もっと性格に普通の文体で書いていっていいのではないか。特に本誌のように、本についての感想や論評を扱う雑誌は、文章の基本をちゃんと押さえてから崩していかないとただのガキ雑誌のような内容になってしまう。

本誌の編集長を長くやってきたから思うのだが、本について論評するということは相当な覚悟が必要である。特に寡作の、その一作にその人の人生をかけてきたような本の場合は、よほどその作品の内側に入り込んで熟読してからの論評でないと刺し違えることすらできない要らぬ毒矢のながれ弾(ヘンな譬えだが)になる可能性がある。

まあ、幸い本誌の場合はエンターテインメント系の本が多いからそこまで危惧し、対策することはないのだろうが、新聞などの書評に時々そういうバカ評論を見る。

私たちが知りたいのは、面白い本はどういう理由で面白かったのか、つまらない本はどういう理由でつまらなかったのか、要はそれだけでいいのだ。それをもっとわかりやすい文と表現で、まずストレートに書いてほしい。

ぼくは本誌の記事をかなり参考にして本を買っているのだが、最近その判定ができない紹介や批評文によくお目にかかるので、空いた空間を使ってこんなウメクサを書いた、という次第。

(下線筆者)



この文章は、ワタシが師と仰ぐ作家の椎名誠氏が、自ら編集長を務めている「本の雑誌」の連載ページに囲みで掲載したコラム的な短文。何に向けて彼が書いたのかはこの際関係がないので省略するが、批評をする行為に関する核心がここに記されていると思う(=下線部分)。

これを音楽に置き換えてみると「面白いCDやコンサートは、どういう理由で面白かったのか、つまらないCDやコンサートはどういう理由でつまらなかったのか、要はそれだけでいい」ということになる。そのことを「もっとわかりやすい分と表現で、まずストレートに」書くという行為が、他人がものしたものを取り上げてああだこうだと言う資格、あるいは“品格”に通じるということを教えてくれている文章だと思う。

これをワタシは座右の銘として書き留めていた(原文掲載誌行方不明のため出典記述できませんコメンナサイ)。↓ほらね。

shiinamakoto.jpg


<まだまだ続く、予定…>

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他を評して論ずるという仕事【プロローグ】

まだ何年かある、とは言っても、人生50年目が近づいてくると、自分はなにをしてきたのか、なにをしていきたいのかを、改めて考えなければならないのではと、思うようになってくる。

“ライター”という大雑把な肩書きを持って20年以上仕事をしてきたけれど、確かな目標があってそれに突き進んできたとはとてもとても言いがたい。

20代、30代は、仕事を求めることで精一杯だったから、仕事のために書いていた。「仕事のために書く」ということは、「お金のために書く」ことに等しいとも言える。要するに、お金がもらえる文章を、お金を出してくれる相手のために書く、ということだ。

もちろん、お金のもらえる文章を書くということに関しては、それなりの技術(と営業力ももちろん)が必要で、20年間なんとか続けてこられたことに対する矜持は持っている。

一方で、40歳を目前にした8年ほど前、このままダラダラと、口当たりの良い言葉ばかりを並べた文章を書き続けていいものか、考えた時期があった。

もちろん、“なんでも屋ライター”という家業は必ずしも加齢とともに収入がアップせず、逆に仕事量は減っていく傾向にあることへの不安があったことは事実。

専門分野を追求していくライターとしての姿勢は、背に腹は代えられないという厳しい現実のなかでは、必要不可欠な要素であったのかもしれない。

そこでワタシは、それまで自分が続けていた仕事のなかで、ひとつを選ぶことにした。

それがジャズ専門誌に書いていた仕事だった。ただし、“背に腹は代えられない”と思ったものの、続けていた仕事のなかでは最も収入の少ないもので、それ専門に特化したとしてもその時点での総収入を上回る可能性はほとんどない、と断言できるような分野だった。

だからといって、「好きだから選んだ」などと奇麗事を言うつもりはない。これでなんとか食っていこうと、腹を括った、いや、腹を括らざるを得なかっただけだ。

正確には、腹を括らなければ、この先そのまま、ライターという仕事を続ける意味がないのではないかという、モチベーションに関係する問題だった。

ようやくワタシは、“誰のために書くのか”を考えられるようになったというわけだ。

<続く予定…>

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テーマ: JAZZ - ジャンル: 音楽

現代舞踏と即興音楽のコラボ雑感



Visioni Incrociate X クロッシング・ビジョン(←詳細はこちら)

曜日の夕方、九段にあるイタリア文化会館アニェッリホールへ。二松学舎大学の隣の、赤い建物だ。

地下二階へ降りて行くと300人ほどの収容スペースを持つホールが。椅子は黒い革でできている。さすがイタリアン。

本日の演目「クロッシング・ビジョン」は、日伊両国で開催される一連のダンス・音楽プロジェクトとのこと。

ダンスと即興音楽のコラボは10年ぐらい前までは頻繁に開催されていた印象があったのだけれど、このところこの手の企画はご無沙汰だったかもしれない。いわゆるアングラ的なニオイがする。

2時間半ほどのステージで、日本とイタリアのモダン・ダンス・シーンをショウケース的に収めたもので、もうすこし音楽との噛み合い方が欲しかったところだが、量的には満足感あり。

なかでもイタリアのダンス陣の能力の高さは特筆すべきものだった。それに比べると、日本のダンス界には不安が…。

イタリアを含めて、ヨーロッパのモダン・ダンスには白虎社や大駱駝艦といった日本の70年代カウンター・カルチャーを代表するダンス集団の強い影響を感じる。

余談だが、20年ほど前に新宿で飲みに入った店で、大駱駝艦の打ち上げに遭遇したことがある。それはもう、すさまじい光景だった。あの人たちはステージと飲み屋のテーブルの区別がつかないらしい…。

話休題。日本発のそれらが欧州で消化されて、こうしてまた極東の小国へもたらされて、それが刺激となって発展が始まるのだろう。

Fuseという感覚よりは、やはりCross Overだな。異種が異種として種を残しながら、部分的なメタモルフォーゼを果たした新種に希望を託す。だから、このイヴェントは結果ではなく経緯に意味があるということになるのだろう。

個人的にはじゃがたらのダンサーだったアンジェラの登場、山崎阿弥の声、石川高の笙の奏法が興味深かった。

ところで、最初はスタイリッシュで座り心地もいいと思っていた黒革の椅子、途中から尻が痛くなっちゃった。残念っ!

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テーマ: 日記 - ジャンル: 音楽

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