Page to Top

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

他を評して論ずるという仕事【資料編】

批評という行為に関して、どのように定義づければいいのか。

ワタシが着目したのは、まず以下の文章だった。

小谷野敦『評論家入門』平凡新書 p.39

つまり、評論でもいいから、根本には学問的な手続きは必要なのであって、学問的に間違いだと分かることは書かない、という方針を立てればいいのだと私は思っている。

いちばんいけないのは、どこが学問的に慎重な部分で、どこが杜撰な部分なのか、書いている当人が分かっていないことだ。

一般向けに書かれていて、学問を踏まえていながら、厳密なアカデミズムの世界では言えないようなことを、少しはみ出す形で言う、これが評論の基本的な姿だと思ってもらえばいい。



“学問的である”ことを意識することによって、その文章はエッセイ=無責任な書きなぐりとは一線を画することになるだろう。ただし、学問的であることと学術的であることは必ずしも一致しない。ゆえに、「少しはみ出す形」が許されるというわけだ。

そして、批評する姿勢として規範としたいのが、以下の文中にあった。

普通の書評が読みたい   椎名誠

最近の「本の雑誌」の文体が気になる。これは間違いなくゼネレーションギャップからきているのだろうというのはわかるのだが、それにしても何かあまりにもクセがありすぎる文章が多く、読んでいられないページにお目にかかる。

近頃わかい人のヘンな話し言葉「こちらカラスのカラアゲとトリカブトのおしたしでよろしかったですか」的な、聞いていてどうにも気持ちがササクレだつような、バカマニュアルトークの、まあつまりその“文章版”といったらいいだろうか。

もっと性格に普通の文体で書いていっていいのではないか。特に本誌のように、本についての感想や論評を扱う雑誌は、文章の基本をちゃんと押さえてから崩していかないとただのガキ雑誌のような内容になってしまう。

本誌の編集長を長くやってきたから思うのだが、本について論評するということは相当な覚悟が必要である。特に寡作の、その一作にその人の人生をかけてきたような本の場合は、よほどその作品の内側に入り込んで熟読してからの論評でないと刺し違えることすらできない要らぬ毒矢のながれ弾(ヘンな譬えだが)になる可能性がある。

まあ、幸い本誌の場合はエンターテインメント系の本が多いからそこまで危惧し、対策することはないのだろうが、新聞などの書評に時々そういうバカ評論を見る。

私たちが知りたいのは、面白い本はどういう理由で面白かったのか、つまらない本はどういう理由でつまらなかったのか、要はそれだけでいいのだ。それをもっとわかりやすい文と表現で、まずストレートに書いてほしい。

ぼくは本誌の記事をかなり参考にして本を買っているのだが、最近その判定ができない紹介や批評文によくお目にかかるので、空いた空間を使ってこんなウメクサを書いた、という次第。

(下線筆者)



この文章は、ワタシが師と仰ぐ作家の椎名誠氏が、自ら編集長を務めている「本の雑誌」の連載ページに囲みで掲載したコラム的な短文。何に向けて彼が書いたのかはこの際関係がないので省略するが、批評をする行為に関する核心がここに記されていると思う(=下線部分)。

これを音楽に置き換えてみると「面白いCDやコンサートは、どういう理由で面白かったのか、つまらないCDやコンサートはどういう理由でつまらなかったのか、要はそれだけでいい」ということになる。そのことを「もっとわかりやすい分と表現で、まずストレートに」書くという行為が、他人がものしたものを取り上げてああだこうだと言う資格、あるいは“品格”に通じるということを教えてくれている文章だと思う。

これをワタシは座右の銘として書き留めていた(原文掲載誌行方不明のため出典記述できませんコメンナサイ)。↓ほらね。

shiinamakoto.jpg


<まだまだ続く、予定…>

   ブログ・ランキングにご協力ください!こちらをクリック
                        ⇒FC2 Blog Ranking
スポンサーサイト

Comment

Post comment

Secret

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。